好きの檻






「好きな人がいる?」

何の話をしていたかわからない。
でもその声が、言葉が硬質でピリピリとしていて、今にも壊れそうなひび入りのガラス板を前にしているような気持ちになった。

背中が床に付けられて、ぺたりと寝転がっている私。自主的にではなく気が付いたらこうなっていたのです。
先ほどまで話していたのは香港くん。今私の目の前にいるのも香港くん。つまり私は彼に押し倒されている。
ふんわりとムスクのような香りがした。恐らく彼から香る匂い。彼の匂いなんて今まで知らなかった。

「答えて」
「香港くん、どうしたのですか」

ぼんやりと言う。寝た覚えもお酒を飲んだ覚えも無いから、これは夢でもなんでもなく現実で。私の視界いっぱいに彼がいる。
黒と茶の中間のさらさら言いそうな髪。端正な顔立ち。赤い赤い、シルクの服。ゆったりと開く口。

「好きな人。いるんすか?」

私の頭に浮かんだのは誰かでしょうか。ここにはいない人でしょうかそれともここにいる人でしょうか。
でもその時私は何故彼がこのようなことをしているのかがわからずそのことばかり考えていたのです。
何しろ天井の照明の逆光で、彼の顔がまるで見えません。
顔の横に置かれた手(まるで私を閉じ込めるように)は握られたり開かれたり。彼の言葉に合わせて動かされました。

「誰?俺の、知ってる人?」
「あの、背中痛いです」
「・・・言いたくない?」

とりあえず現状を打破しようと言った言葉も、嘘だとばれてしまったのでしょうか。
そう嘘、背中など痛くない。ただただこの状況がわからないだけ。

「それとも口に出せるだけの自信が無い的な?」

不思議な質問でした。彼の口調には、おかしい程の焦りまで見出せます。

「所詮迷うくらいの感情っしょ?」

何故彼が焦るというのでしょう。ああ焦っているのは私ですね。この理解が追い付かない状況に。

「何かあったのですか」
「何もない。もう俺、それに耐えられないんで」

ゆっくりと彼の顔が近づいてきました。具合が悪くて倒れ込むのかと思うその雰囲気に、驚いて固まってしまいます。
香港くんはゆっくり私に近づきました。
ああそういえばこれは、俗に言う「押し倒す」状態に近いですね。

「…香港くん?」
「俺、とても淋しい。あなたの横にいる時」
「それは…申し訳ありません」
「日本さんわかってないっしょー…」

わからなくてもとりあえず謝ってしまうのは良くない、とは誰に言われた言葉だったでしょうか。でも私にそれ以外何が出来たでしょう。
こんなに真な言葉に、私はどう返すべきなのか全くわからなかったのです。
真剣な彼にはとても失礼だとわかっている、それでもその真意がわからない。
困りきったような、でも少し苦笑を含んだ声は柔らかくて、少し私も笑ってしまいそうになる。

「日本さんの匂いがする」

すん、と鼻を鳴らす香港くんは小さく笑う。その目は私の気のせいで無ければ涙で潤んでいて。
私はまるで腕の中に小さい子供を抱えている様な気持ちになりました。
その背中を抱きしめたいような、頬をふんわり包みこんであげたいような。
でも彼の顔が見えないので、私はどちらをするのも怖かったのです。
さらりと、私の頬に彼の髪が触れました。また彼の香りが香ります。

「たまんない。大好き」

人の体温、気が付けば真上になかった彼の顔、左に動かせない頭、真左にある彼の後頭部。
体の前を横切る彼の腕。そこまで黙視して、私はやっと、私は彼に抱き締められているとわかったのです。
抱き締められている腕はとても強くて、でも私は彼が淋しいという理由がやっとわかった気がして。
まさかまさかと思いながらも、何故だか視界がじんわりとにじみました。

私の力ではとても抜け出せないこの彼の腕という檻は、優しくて情を捨てきれない彼の作る、とても甘やかな檻でした。




end

10.6.15
加筆修正 10.7.16



like cage  どうしてどうして抜け出せる




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