濃い闇の下。
星の無い夜空には存在感を主張する真円の月。
人里離れた誰とも知らぬ場所を一人歩く者がいた。
周りに何者かがいればその男の異常さに気付いたことだろう。その青年は全く足音をさせていない。それどころか気配さえも無い。気配には敏感すぎる程の羽虫さえ彼の足元で動かぬことがその証拠だ。
青年は急いでいた。焦りは表情には現れぬが、目の前の建物が見えて来たことでその足運びは一層早くなる。
闇の中に佇む、良く言えば時代がかった。悪く言えば時代遅れの建物はさながら旧時代の貴族の別荘だ。荒れた外観は人が住んでいるとは思えない。しかし青年は迷うことなく扉を開けた。勝手知ったる様子で廊下を進み、奥の部屋を目指す。風も無いのに全身を覆う黒装束の裾が翻った。
建物の中は、外から見た様子と比べれば驚くほど整っている。薄暗いことを除けば定期的に埃を払われ調度を整えていることがわかるだろう。廊下に飾られた年代物の骨董品は持ち主の財力をこれでもかと顕示していた。
 しかし男はそれらに目をくれることもない。最奥の間の扉の前で立ち止まるとほとんど殴るように戸を叩き、返事を待たずに入室した。
「先生」
 当主の私室には、灯りも点いていない。しかし探している人物がそこにいることはすぐわかった。
「何あるか」
 先生と呼ばれた男…年若くまだ数えても三十に満たないような男がこの家の当主であった。窓辺で杯を傾けていた彼は勢い込んで部屋に入ってきた青年を待ち構えるように体を反転させ、クッと片頬を上げた。
「まあそろそろかと思ったあるよ。血の匂いがここまでしてきたある」
 ニヤリと笑う顔に青年は内心むっとした。それさえ見抜いて焦らすように、男はゆったり杯を置いた。
「…今行くある」
 コート掛けの上着を肩に掛け、引き出しから何かを取り出した男は青年の横を通り過ぎていく。その男もまた青年と同じく、足音さえさせず。まるで地面から浮いているように。
 扉に手を掛け、振り返った男の目は先程までと違い氷の張った水の様に冷たい。
「終わるまで、誰も近付けるんじゃねぇあるよ」
 男が出ていった後も青年は部屋で佇んでいた。彼の態度に思うことはあれど、青年は何も言えない。何故なら相手は一族の長でまた彼にとっても尊敬の対象だからだ。しかし彼が向かう場所のことを思うと、やるせない思いが胸に去来する。
「香」
 呼ぶ声にはっと顔を上げれば、廊下から別の男が顔を出していた。心配そうな、彼に似合わない顔で。
「大丈夫なんだぜ?」
「勇洙」
 部屋の中の青年―香は、何故ここにと首を小さく傾げた。勇洙は後ろを見て、誰もいないことを確認し当主の部屋に入る。
「兄貴が出ていくのが見えたんだぜ」
 当主とも香とも少し違う黒衣を扉に挟まぬように、裾を気にしていた。
 勇洙は当主を「兄貴」と呼ぶが血の繋がった兄弟ではない。兄弟の契りを交わしたようなものだ。当主を慕う彼も、その男が向かった場所を知っていた。
「あいつまたなんだぜ」
 その不満げな様子は、まるで建物の中を伝染しているように。気配無きその豪邸を包んでいた。


 住処を出て森を行く。森の中に明かりはないが、夜目が利くので不便は無い。
 辿るのは普段森に無い物音と、血の匂い。生臭いそれは全く食欲をそそるものではない。
「…近いあるな」
 黒髪を束ねた当主―耀が呟いた。彼の一歩毎に、息継ぎ毎に樹々がさざめく。道を開けるように草葉が揺らめいた。どこからともなく吹く夜風が耀の上着をひらめかせる。
 視界が開け、辿りついた場所は泉であった。
 光源の無い今宵の夜の中で、暗い水面が鏡の様に重く鈍く沈黙している。水面に月だけがくっきりと揺らめく姿は月が落ちてきたようだ。
 泉のほとりにうずくまる影があった。座り込み肩を震わせる細い身体は耀と違い闇に溶けず、月の光でぼんやり浮かび上がりその場にそぐわない空気を出している。
 …そう、まるで何かから逃げてきたかのように。
「菊」
 耀の声に、影がビクリと反応した。しかし影は振り返ることはせず、より強く己の肩を抱く。
「何をしているあるか」
 耀は立ち上がりもしない菊にゆったりと歩み寄った。耀の口調はごく優しい。子供に諭すようにそっと、笑うように響く。嗤うように、口元を押さえた。
「そんなに血の匂いをさせて」
 強い電流を流されたように菊が震えた。
 耀が乱暴に菊の顎を掴んだ。一度も耀の方を見ようとしなかった菊の顔が月灯りに照らされる。
 涙の粒が決壊しそうな濡れた、充血し血走った眼がまっすぐに睨み付けてきた。
 食い縛り歯を噛み締めた口の周りは、べっとりと赤黒い血で汚れている。
「ッハッ、また家畜の血を喰らったあるか!」
 愉しそうに嗤う耀は、予想通りの菊の姿に笑みを深める。菊は押さえつけられた顎を離させようとかぶりを振ろうとした。しかしいくら力を入れてもその手指はピクリとも動かない。
「口の周りをそんなに汚して。よっぽど腹が減っていたあるな」
 よく見れば菊の指も、爪の間まで血液が入り込んでいる。
「ちゃんと一思いに殺してやったあるか」
「うるさいっ…!」
 やっと口を開いた菊は尚耀を睨む事をやめない。膝立ちの姿勢が苦しいのだろう、息を上げ耀の手首を両手で掴み引き剥がそうと爪を立てる。その指までも震えており、耀はより一層菊に言い募りたくなった。
「で、腹は満たされたあるか?」
 そうでないことはわかっている。だからこそ面白い。
 血液が人のものではなく、また菊のものではないことも一目で理解出来る事だった。血のつき方は菊が何かを喰らったようであるし、人のものとは匂いが違う。それは『彼ら』にだけわかる独特の嗅覚だ。また人の血では、菊はこれよりももっと、今に無い程我を失っていることだろう。
「何を仰りたいんですか」
 理性を失いかけているのにしてはしっかりした口調は、菊の特質だ。日頃隠されたプライドの高さによるものでもある。
 耀は腕の力を解いた。途端菊は背中から倒れこみ、尻から座り込んだところでかろうじて背後に両手をついた。
「お前が今、望んで止まない物をやるある」
 耀は強く言い放ち、懐から小さな小刀を出した。指先から手首までの長さしかないそれの鞘を抜き、止める間も無く自らの左手の親指の腹を切りつける。
 痛みを感じていないように平然とした顔の耀に対し、強い反応を見せたのは菊の方であった。
 目を見開き、視線の先にある物を一瞬たりとも見逃さぬよう息を詰めている。白い喉が唾を飲み込みこくりと上下した。眼はまるで尊厳を失くした獣のようだ。
 耀の指先から溢れる血液。濃い赤はじわじわとこみ上げ皮膚の上に丸い珠を作る。菊にはその流れがスローモーションのように細かに見えていた。
 欲シイ。
 体の奥から声がする。
 脈動と同じ間隔で声が響き、耳を覆うように大きくなる渇望の叫び。
 欲シイ。欲シイ。欲シイ。欲シイ。
 耀が何か言っている。あざけ嗤い口元を歪めている。
 しかしそれも、人より優れた菊の耳が受け取ることはない。
 欲シイ。欲シイ。欲シイ。欲シイ。欲シイ。欲シイ。
 血が今にも流れ落ちてしまいそうな事が何よりの優先事項だ。血は重力に逆らえず、地球上の他の水分と同じく今にも地へ落ちようとしていた。
「これが欲しいあるか」
 菊は無意識に首を縦に振った。
「なら口を開けるある」
 操られるように口を開いた菊へ、血の滴が垂らされた。
 かすかに甘く、それよりも深く、強い味が菊の咥内を広がる。喉にまで流れたところで砂漠で水を飲んだかのような心地に陥った。そう、正しく感覚としてはそれが正しい。
 菊は夢中で耀の指を掴んだ。
 耀は振り払うことをしない。好きにさせ、指先に菊がより近くなるよう手を傾ける。
 菊はその指にしゃぶりついた。耀の指先から菊の口へ血液が流れ込んでいく。
「噛み千切るんじゃ、ねぇあるよ…」
 若干苦しそうにしながらも、耀は噛み殺した笑い声を出した。
 菊は気にすることなく耀の細い指から血を吸い上げる。こくこくと嚥下する音は放っておけば途切れることもないだろう。
 耀は乾ききっていない菊の口の周りの血液を拭った。恐らく街には下りていない。森の中で野生の動物でも捕まえたのだろう。動物の血は非常用でしか使わない。何故なら人以外の血は精力を得るには不十分で不味いからだ。匂いも良くない。
 菊が必死で啜るこの血液はどんな味がするのだろう。耀は口にしたことがなかったからわからなかった。
 だがしかしこれは人間と同じ、もしくは個体によってはそれ以上の力を得ることの出来る『食物』だ。
 血で腹を満たさねば、人間と同じ食事をしても美味と感じることはない。むしろ何を口にしても砂を噛むようで吐き出しそうになる。
 飢餓は理性を失わせる。
 耀は空いている指で片袖を捲くった。
「足りないある?」
 す、と菊の前に白磁色の腕を晒した。
 菊はぎらりと光る目を上目遣いに見上げ、腕に釘付けになった。指から口は離さぬまま。
「ほら。好きなだけ飲んで良いあるよ」
 やっと指を離した菊は、口を大きく開く。思考は耀の腕に青く浮かぶ血管でいっぱいなことだろう。指には赤い噛み跡が残っていた。
 菊は耀の腕を両手で掴み、尖った牙を皮膚に食い込ませた。





「しょうがない。俺達は吸血鬼なのに、菊は人間から血が飲めない」
 香の淡々とした声に、勇洙は口を尖らせた。
「おかしいんだぜ。望まずに吸血鬼になったからって…」
 し、と香が指を突きつける。黙れ、という意思表示だった。
「俺たちも街で食事。今夜は満月なんだから」

つづく